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<ウルムチ騒乱>皇帝とポピュリズム=現代中国の政治文化

本エントリーは「<ウルムチ騒乱>民意が国を滅ぼす時=血の報復を叫ぶ市民」の続きです。

伝統中国では地方官は「父母官」と別称された。この名称には官僚の卓越した“徳”によって、あたかも父母のように民衆に恩恵を与える存在であることが含意されている。この図式は地方官にとどまるものではなく、最高の“徳”を持つ存在=皇帝こそが最大の慈愛をもって民衆に対すると観念されていた。裏返せば、慈愛に感謝する民の存在こそが皇帝や地方官の“徳”を証明し、その支配の正統性を証明するものであった。

こうした図式は新中国になっても大きくは変わっていない。公式テレビニュース番組「新聞聯播」は冒頭に政府要人の動向を伝えるコーナーが存在するが、そこで繰り返し語られるのは「民衆に向けられた慈愛」である。胡錦濤国家主席や温家宝首相が貧困地区を訪問し暮らしぶりを尋ねる。それだけではなく、手ずから料理を作って市民に振る舞うというパフォーマンスまで行われる。

いや恩恵はこの程度でとどまるものではない。例えば2003年の熊徳明さんの問題。農村を訪問した温家宝首相に「出稼ぎに行っている夫の給与が未払いで困っている」と訴えたところ、温首相はただちに解決を指示、その夜のうちに未払い給与が支払われた。2007年には捜査から8か月、一向に進展しなかった河南省の児童誘拐事件が、新聞の報道を目にした温首相の鶴の一声でわずか8日で解決したこともある。

こうした中国の「政治家のあり方」は近代国家とは異なるものと言える。つまり近代国家とは立法、司法、行政の分立に代表されるように、各国家機関の職権、職責が明確化されているもの。たとえ善意によるものであれ、恣意的な権力行使は許されない(少なくとも理念的には)。

中国社会の特異なあり方、それはたんに政治家に強大な権限が集中していることにのみ由来するものではない。先に述べた「父母官」の伝統が強く影響しているもののように思える。その理解において最もふさわしい補助線となるのが中国法制史の滋賀秀三氏の研究だろう。

滋賀氏は清代の裁判は「法」、「理」、「情」の三つの判断基準によって決定されたと唱えている。「法」とは法律の条文そのもの、「理」とは法律の条文にはないものの普遍的な真理と見なされるもの、そして「情」とは物事のコンテクストや当事者への同情を意味する。

日本にも「大岡裁き」という言葉があり、事案の内情や当事者の心情を読み取った裁判は称賛されるべきものと目されている。しかしながら(近代以降は)「大岡裁き」はレアケース、あるいは理想ではあっても現実にはないものであるのに対し、中国では「情」に即した裁判はむしろ制度そのものに内包された、レアケースではなく積極的に実現されるべきものと観念されている。

伝統中国から続く政治家のあり方、権力のあり方。それは新中国になっても色濃く影響を残すものであった。「人治から法治へ」という有名なスローガンは、伝統の残滓を投げ捨て近代国家としての一般的な形態に移行することを求めるものである。ただし伝統的な「情」や「父母官」の観念がたんに批判されるべき対象であったとは言い切れない。不十分かつ部分的なものであったにせよ、「社会正義」を実現するツールとして機能していた側面も見逃せないためだ。

しかし今、インターネットというニューメディアの登場によって、こうした中国のあり方は大きな危機を迎えているように見える。ウルムチ騒乱後に「血の報復」を唱える漢民族ネットユーザーの声はまさに危機を明示するものにほかならない。

次回エントリー(今度こそ最終回…)ではニューメディアの登場が与えた影響を考えたい。


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