中国で“ありえない倒壊”が連続=その理由とは?
今回のエントリーですが、相次ぐ中国の「謎の倒壊」ネタについて。注目しているから目につくという部分もあるのでしょうが、それにしても不思議すぎる事件が連続しています。
6月27日に起きたのが本ブログでもとりあげた上海市の「マンションぽっきり倒壊」。根元からぽっきりマンションが折れた異様な光景は日本でもずいぶん話題となりました。
・マンションぽっきり倒壊

7月20日に起きたのは「ブロック崩し倒壊」。広西チワン族自治区柳州市の取り壊し予定だった3階建てマンションが倒壊したというもの。この倒壊理由が驚きで付近の農民が壁からレンガを引っこ抜いて盗んでいたら倒壊したそうで、そんな簡単にマンションって壊れるのと衝撃的な事件でした。上海市の「ぽっきり倒壊」では倒れてもビル本体は無事だったのと大きな違い、でしょうか?!
7月23日には「真っ二つ倒壊」。大雨と強風で高さ187メートルもあるテレビ塔がぽっきりと折れてしまったというもの。風速は20メートル超だったとのことでが、それで壊れるようならお話にならないと思うのですが。続報記事ではちゃんとした図面もなしに「現場で摸索」しながら作っていたという凄まじすぎるお話も。
・テレビ塔真っ二つ倒壊

7月25日には、四川省アバ・チベット族チャン族自治州汶川県で岩石崩落事故により橋が100メートルにわたり崩落する「ナイアガラ倒壊」。後で紹介するブログ読者の方のメールによると、「100メートルにもわたる崩落はありえない。切断面に鉄筋や鉄骨が見えない」と問題がある工事だったとのご指摘がありました。
・橋が100メートルにわたり崩落

8月4日には河北省石家庄市で建設中の工場が落雷を受け倒壊、17人が死亡する大惨事となりました。落雷の力はすさまじいものではあるのでしょうが、避雷針はなかったのか、雷一発でばらばらになってしまう工場ってと驚かされました。
・落雷で工場が倒壊

そして8月8日、今度は安徽省合肥市で建設中の地下道陥没事故が発生しました。同日朝、掘削したトンネルを鉄筋やコンクリートで覆う覆工作業のため支柱を取り外したところ、午後1時に陥没事故が発生するという恐ろしさ。なによりすごいのは「事故の処理も含め40日間で予定の作業を終了させる」と施工会社が明言しているところです。現地でも工事を急ぎすぎたのが事故原因ではないかとうわさされているようですが、10日付中安在線によると、市政府による事故原因調査は「建設場所が繁華街にあり、車の交通量が多い、地下のパイプが多い、上部の厚さがわずか5センチと浅い地点での工事だった」との困難な条件からミスが出たと結論づけており、工事を急いだのが原因ではないと結論づけています。
・道路が陥没

なんでこんなに不思議な問題が続出するの、と誰もがツッコミを入れたくなるところですが、ブログを読んでくださった土木施工管理技師のYさんが上海のマンションぽっきり倒壊について解説してくださったのでそのメールを紹介させていただきます。
私は土木施工管理技師ですが、この上海の倒壊ビルの写真を見て,直感したのは、基礎杭の不良です、これに使用されたパイルには鉄筋が一切使われていないのは、日本ではありえないことです。ローソクみたいな杭を使ったのでは強度以前の問題です。このパイルで建築許可が出るのが中国のすごいところ。他の建築物も推して知るべし、上海のみならず、中国全土の高層ビルの大半は手抜き工事の百貨店。恐ろしい結末が待っています。
又、日本ではコンクリート打設後は強度が出るまでの28日間はその上の階のコンクリートは打設出来ませんが、中国ではそんなことはお構いナシでドンドン上へ上がっていく様には唖然とさせられます。更にコンクリートの質の面でもおそらく、日本では考えられ無いような低品質な配合率で使われていることでしょう。
先にも新築の橋の足場と支保工をはずしたと同時に構築物が崩壊したことがありましたが、さらっぴんのまだ未使用の橋が崩壊するなんて考えられないようなことが興るのが中国の不思議です。ニッポンにも悪徳業者はありますが、まだ救いがあるのでしょうか。鉄筋コンクリートの構造物は手を抜けばいくらでも抜ける、悪徳業者には美味しい仕事なんでしょう。
以上、引用させていただきました。非常に長文のメールをいただいたので、一部抜粋して紹介させていただきました。専門家の目から見ると、技術的な不足、劣悪な素材を使う悪徳業者など多くの問題が丸わかりだそうです。
これに付け加えるとするならば先月上海にいって感じたのですが、建設工事の急増があるのではないでしょうか。金融危機対策として中国政府は巨額の財政出動と超金融緩和を実施していますが、その金の多くがインフラ整備など建設事業に流れ込んでいます。特に来年万博を迎える上海市は地下鉄を作ったり道路を整備したりといたるところで工事をしていて凄まじいばかりのホコリが漂っていました。
公共事業自体は決して悪いことではないと思いますが、問題は技術と経験のある“まっとうな”業者の数は限られているでしょうから、問題のある工事が増えるということ。こうした背景を受け最近中国で話題となっているのが「GDPの質」論。例えば1億円かけて橋を造り品質が悪いので5000万円かけて撤去すれば、何も物は残っていないのにGDPは1億5000万円分増えているという数字のマジックを指します。
「8%成長死守」(中国語で保8)を至上命題とする中央政府の方針に疑問を投げかけるものですが、これを広東省トップの汪洋省委書記が言ったというのは問題が深刻なことを意味していると大mわれます。汪省委書記は官僚の人事考課の材料としてGDPを用いることはやめるべきとまで提言しています。
実はこうした問題はずいぶん前から認知はされており、胡錦濤国家主席の唱える「科学的発展観」(数字だけではない、調和の取れた成長を求める思想)はまさしく中国社会のゆがみを是正することを目指していたはずです。結局は失敗しましたが、「緑色GDP」(環境負荷を盛りこみ修正した、新たなGDPの指標)を作ろうとしてみたり、いろいろ取り組んではいました。
ただリーマンショックで事態は一変、あれやこれやはすべて後回しとなり、「8%成長死守」の大号令がかかってしまったという印象です。今は傷口からの出血を抑える、根本的な治療はその後で、という方針自体は間違ってはいないのかもしれませんが、「とりあえず」がいつまでも続けば、手抜き工事の建築をはじめさまざまな問題が大きな重しとして残ることになるでしょう。

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6月27日に起きたのが本ブログでもとりあげた上海市の「マンションぽっきり倒壊」。根元からぽっきりマンションが折れた異様な光景は日本でもずいぶん話題となりました。
・マンションぽっきり倒壊

7月20日に起きたのは「ブロック崩し倒壊」。広西チワン族自治区柳州市の取り壊し予定だった3階建てマンションが倒壊したというもの。この倒壊理由が驚きで付近の農民が壁からレンガを引っこ抜いて盗んでいたら倒壊したそうで、そんな簡単にマンションって壊れるのと衝撃的な事件でした。上海市の「ぽっきり倒壊」では倒れてもビル本体は無事だったのと大きな違い、でしょうか?!
7月23日には「真っ二つ倒壊」。大雨と強風で高さ187メートルもあるテレビ塔がぽっきりと折れてしまったというもの。風速は20メートル超だったとのことでが、それで壊れるようならお話にならないと思うのですが。続報記事ではちゃんとした図面もなしに「現場で摸索」しながら作っていたという凄まじすぎるお話も。
・テレビ塔真っ二つ倒壊

7月25日には、四川省アバ・チベット族チャン族自治州汶川県で岩石崩落事故により橋が100メートルにわたり崩落する「ナイアガラ倒壊」。後で紹介するブログ読者の方のメールによると、「100メートルにもわたる崩落はありえない。切断面に鉄筋や鉄骨が見えない」と問題がある工事だったとのご指摘がありました。
・橋が100メートルにわたり崩落

8月4日には河北省石家庄市で建設中の工場が落雷を受け倒壊、17人が死亡する大惨事となりました。落雷の力はすさまじいものではあるのでしょうが、避雷針はなかったのか、雷一発でばらばらになってしまう工場ってと驚かされました。
・落雷で工場が倒壊

そして8月8日、今度は安徽省合肥市で建設中の地下道陥没事故が発生しました。同日朝、掘削したトンネルを鉄筋やコンクリートで覆う覆工作業のため支柱を取り外したところ、午後1時に陥没事故が発生するという恐ろしさ。なによりすごいのは「事故の処理も含め40日間で予定の作業を終了させる」と施工会社が明言しているところです。現地でも工事を急ぎすぎたのが事故原因ではないかとうわさされているようですが、10日付中安在線によると、市政府による事故原因調査は「建設場所が繁華街にあり、車の交通量が多い、地下のパイプが多い、上部の厚さがわずか5センチと浅い地点での工事だった」との困難な条件からミスが出たと結論づけており、工事を急いだのが原因ではないと結論づけています。
・道路が陥没

なんでこんなに不思議な問題が続出するの、と誰もがツッコミを入れたくなるところですが、ブログを読んでくださった土木施工管理技師のYさんが上海のマンションぽっきり倒壊について解説してくださったのでそのメールを紹介させていただきます。
私は土木施工管理技師ですが、この上海の倒壊ビルの写真を見て,直感したのは、基礎杭の不良です、これに使用されたパイルには鉄筋が一切使われていないのは、日本ではありえないことです。ローソクみたいな杭を使ったのでは強度以前の問題です。このパイルで建築許可が出るのが中国のすごいところ。他の建築物も推して知るべし、上海のみならず、中国全土の高層ビルの大半は手抜き工事の百貨店。恐ろしい結末が待っています。
又、日本ではコンクリート打設後は強度が出るまでの28日間はその上の階のコンクリートは打設出来ませんが、中国ではそんなことはお構いナシでドンドン上へ上がっていく様には唖然とさせられます。更にコンクリートの質の面でもおそらく、日本では考えられ無いような低品質な配合率で使われていることでしょう。
先にも新築の橋の足場と支保工をはずしたと同時に構築物が崩壊したことがありましたが、さらっぴんのまだ未使用の橋が崩壊するなんて考えられないようなことが興るのが中国の不思議です。ニッポンにも悪徳業者はありますが、まだ救いがあるのでしょうか。鉄筋コンクリートの構造物は手を抜けばいくらでも抜ける、悪徳業者には美味しい仕事なんでしょう。
以上、引用させていただきました。非常に長文のメールをいただいたので、一部抜粋して紹介させていただきました。専門家の目から見ると、技術的な不足、劣悪な素材を使う悪徳業者など多くの問題が丸わかりだそうです。
これに付け加えるとするならば先月上海にいって感じたのですが、建設工事の急増があるのではないでしょうか。金融危機対策として中国政府は巨額の財政出動と超金融緩和を実施していますが、その金の多くがインフラ整備など建設事業に流れ込んでいます。特に来年万博を迎える上海市は地下鉄を作ったり道路を整備したりといたるところで工事をしていて凄まじいばかりのホコリが漂っていました。
公共事業自体は決して悪いことではないと思いますが、問題は技術と経験のある“まっとうな”業者の数は限られているでしょうから、問題のある工事が増えるということ。こうした背景を受け最近中国で話題となっているのが「GDPの質」論。例えば1億円かけて橋を造り品質が悪いので5000万円かけて撤去すれば、何も物は残っていないのにGDPは1億5000万円分増えているという数字のマジックを指します。
「8%成長死守」(中国語で保8)を至上命題とする中央政府の方針に疑問を投げかけるものですが、これを広東省トップの汪洋省委書記が言ったというのは問題が深刻なことを意味していると大mわれます。汪省委書記は官僚の人事考課の材料としてGDPを用いることはやめるべきとまで提言しています。
実はこうした問題はずいぶん前から認知はされており、胡錦濤国家主席の唱える「科学的発展観」(数字だけではない、調和の取れた成長を求める思想)はまさしく中国社会のゆがみを是正することを目指していたはずです。結局は失敗しましたが、「緑色GDP」(環境負荷を盛りこみ修正した、新たなGDPの指標)を作ろうとしてみたり、いろいろ取り組んではいました。
ただリーマンショックで事態は一変、あれやこれやはすべて後回しとなり、「8%成長死守」の大号令がかかってしまったという印象です。今は傷口からの出血を抑える、根本的な治療はその後で、という方針自体は間違ってはいないのかもしれませんが、「とりあえず」がいつまでも続けば、手抜き工事の建築をはじめさまざまな問題が大きな重しとして残ることになるでしょう。


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「血にまみれたGDPなら要らない」=「保八」路線から転換のサイン?
「血にまみれたGDPなら要らない。」
なにやら仰々しい文言ですが、山西省が過積載トラック取り締まりにおいて掲げたスローガンだそうです。中国交通運輸部の李盛霖部長は24日、全国過積載取り締まり活動現場会議に出席、山西省の活動を高く評価しました。その発言を伝える記事で取り上げられたものです。
日本でも過積載ぐらい結構あるんじゃないのとも思いますが、中国のそれはレベルが少し違います。
・荷物積み過ぎでウイリー状態に

・車が重すぎて橋を破壊

・車が重すぎて道路が陥没

なかでも山西省は中国一の石炭採掘量を誇っているだけに、その運送トラックの過積載が大きな問題になってきたとのこと。そこで2007年末から「血にまみれたGDPなら要らない」をスローガンに活動を続けてきたそうです。2年弱の間に400人以上の官僚が取り締まり不十分を理由に処分を受けたほか、企業110社が処罰され、さらには県長1人が解任されるほどの力の入れようだったとか。李部長は山西省の取り組みを全国に広めよと檄を飛ばしています。
GDPのみを追い求めることなかれ、とくればなんといっても環境問題。以前は環境負荷が大きい発電所を壊すべきだとか、そうした記事が目立っていたのですが、金融危機後は「保八」(8%成長維持)の大号令の前にかき消されたイメージです。「血にまみれたGDPなら要らない」を敷衍すると、万博直前上海のしゃかりきな施工とかぽっきり折れるマンションとかいろんなものに適応されそうで、なにげに「保八」の大命題と反するようにも思います。
たんに勢いで取り上げられただけでそこまで考えての発言ではないようにも思うのですが、気になったのはブログ「中南海ノ黄昏」のエントリー「広東省書記・汪洋曰く「GDPなんか糞食らえだ」。こちらは広東省の汪洋書記が「無駄なもん作って壊したらそれでGDPが増えるけど意味ないだろ」とキレたというお話。趣旨も違うので一概に一緒くたにはできませんが。。。
ともあれ株価、不動産価格もそろそろ限界じゃね?とのことで、みなが逃げ時を計っているかのような雰囲気が漂っています。引き金を引くのは政府の動向であろうだけに一挙手一投足が注目されているだけにいろいろ深読みしたくなってしまう時期ではあります。

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投票よろしくお願いいたします。
なにやら仰々しい文言ですが、山西省が過積載トラック取り締まりにおいて掲げたスローガンだそうです。中国交通運輸部の李盛霖部長は24日、全国過積載取り締まり活動現場会議に出席、山西省の活動を高く評価しました。その発言を伝える記事で取り上げられたものです。
日本でも過積載ぐらい結構あるんじゃないのとも思いますが、中国のそれはレベルが少し違います。
・荷物積み過ぎでウイリー状態に

・車が重すぎて橋を破壊

・車が重すぎて道路が陥没

なかでも山西省は中国一の石炭採掘量を誇っているだけに、その運送トラックの過積載が大きな問題になってきたとのこと。そこで2007年末から「血にまみれたGDPなら要らない」をスローガンに活動を続けてきたそうです。2年弱の間に400人以上の官僚が取り締まり不十分を理由に処分を受けたほか、企業110社が処罰され、さらには県長1人が解任されるほどの力の入れようだったとか。李部長は山西省の取り組みを全国に広めよと檄を飛ばしています。
GDPのみを追い求めることなかれ、とくればなんといっても環境問題。以前は環境負荷が大きい発電所を壊すべきだとか、そうした記事が目立っていたのですが、金融危機後は「保八」(8%成長維持)の大号令の前にかき消されたイメージです。「血にまみれたGDPなら要らない」を敷衍すると、万博直前上海のしゃかりきな施工とかぽっきり折れるマンションとかいろんなものに適応されそうで、なにげに「保八」の大命題と反するようにも思います。
たんに勢いで取り上げられただけでそこまで考えての発言ではないようにも思うのですが、気になったのはブログ「中南海ノ黄昏」のエントリー「広東省書記・汪洋曰く「GDPなんか糞食らえだ」。こちらは広東省の汪洋書記が「無駄なもん作って壊したらそれでGDPが増えるけど意味ないだろ」とキレたというお話。趣旨も違うので一概に一緒くたにはできませんが。。。
ともあれ株価、不動産価格もそろそろ限界じゃね?とのことで、みなが逃げ時を計っているかのような雰囲気が漂っています。引き金を引くのは政府の動向であろうだけに一挙手一投足が注目されているだけにいろいろ深読みしたくなってしまう時期ではあります。


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<ウルムチ騒乱>民の「勝利」が悲劇をもたらす=皇帝独裁下のポピュリズム(完結)
本エントリーは「民意が国を滅ぼす時=血の報復を叫ぶ市民」「皇帝とポピュリズム=現代中国の政治文化」「官に「声を届ける」こと=陳情からマスメディアへ」の続きです。
「上訪」、そしてマスメディアの「声を届ける機能」は、恩恵を施す官という存在を担保するためには不可欠なルートであった。しかしその回路は開かれつつもきわめて細い入り口しか開いてはいなかった。
「上訪」には北京市など「声を届ける」相手の居住地にまででかけなければならないというコストが必要となる。マスメディアへの訴えの場合にはこうしたコストは不必要となったが、しかし「声が届くかどうか」がマスメディアの(そしてそれを監督する政府の)きわめて恣意的な判断に左右されるという点では「上訪」と変わらない存在であった。
こうした既存のルートと異なる性質を持ったのが携帯メール、そしてインターネットだった。ついに人々は自らの声を直接発する方法を手に入れた。もちろんその声を聞くかどうかの選択肢は権力者の手にゆだねられている。しかし人々の情報発信は「声を届ける」相手を特定して行われるというよりは、むしろただその場で叫び続けると比喩されるもの。その声に同調して叫ぶ者の数が増えればついには権力者も耳を背けることのできないものとなる。
余りに理想的にインターネットを捉えているのではと思われるかも知れない。しかしこうした叫び声の集まりがついには政府を動かした例はいくつもあげることができる。2007年のアモイPX事件や2008年の上海市リニア建設反対運動(それぞれ2007年12月21日付レコードチャイナ、2008年1月15日付レコードチャイナを参照)、今年に入ってからも70碼事件、そして玉嬌事件で、ネットを通じた「声の集まり」が政府の対応を変える「勝利」をもたらした。
玉嬌事件を伝えた本ブログのエントリー「「司法の知恵」を許していいのか?官僚刺殺事件の「勝訴」に問われる良識」では、「勝利」を無邪気に喜ぶ市民の声に疑義を呈した。すなわち「勝利」はあくまで権力者の慈悲がもたらされた結果であり、「法治」という観点からは逆行するものであったからだ。
そしウルムチ騒乱が起きた今、中国のインターネットにはどのような声が叫ばれているのか。ウイグル人への報復、少数民族として優遇措置を受けてきた歴史を批判する声があふれかえり、権力者も無視できない状態になっている。もし今回、再び市民の声が「勝利」するようなことになれば、その結末はあまりにも無残なものとなるだろう。
10日、新華社ははじめてウルムチ騒乱の民族別死者数を明かした。漢民族が137人、ウイグル人が46人と発表されている。ほぼ3対1という割合はネットに響き渡る声に最大限に配慮し、熟考したうえで決定された数字ではないのかとも疑わせる。
一方、ネットでは死者一人一人の名前を確定していく作業が進められているようだ。個別の死者に寄り添う哀悼の行為自体は決して間違ったものではないが、着地点を求めた政府発表を揺らがすものになること、そして死者の物語について理解することがより深い怒りを呼び起こすことになるだろう。こうした声の高まりに中国政府はどう判断を下すのだろうか。
ここまで解説してきたような中国の政治文化にあって、もし民の声がゆがんだ方向に暴走した時、「血の報復」を求めた時、慈悲深き権力者はどのような行動をとるのか。そこに「皇帝独裁下のポピュリズム」が立ち現れるのかもしれない。
以上で終わりです。計4本にも及ぶ、長すぎるお話となってしまいました。全部読んでくださった方、本当にお疲れさまでした。ちょっと大上段に過ぎたかなと反省しておりますので、ご容赦ください。

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「上訪」、そしてマスメディアの「声を届ける機能」は、恩恵を施す官という存在を担保するためには不可欠なルートであった。しかしその回路は開かれつつもきわめて細い入り口しか開いてはいなかった。
「上訪」には北京市など「声を届ける」相手の居住地にまででかけなければならないというコストが必要となる。マスメディアへの訴えの場合にはこうしたコストは不必要となったが、しかし「声が届くかどうか」がマスメディアの(そしてそれを監督する政府の)きわめて恣意的な判断に左右されるという点では「上訪」と変わらない存在であった。
こうした既存のルートと異なる性質を持ったのが携帯メール、そしてインターネットだった。ついに人々は自らの声を直接発する方法を手に入れた。もちろんその声を聞くかどうかの選択肢は権力者の手にゆだねられている。しかし人々の情報発信は「声を届ける」相手を特定して行われるというよりは、むしろただその場で叫び続けると比喩されるもの。その声に同調して叫ぶ者の数が増えればついには権力者も耳を背けることのできないものとなる。
余りに理想的にインターネットを捉えているのではと思われるかも知れない。しかしこうした叫び声の集まりがついには政府を動かした例はいくつもあげることができる。2007年のアモイPX事件や2008年の上海市リニア建設反対運動(それぞれ2007年12月21日付レコードチャイナ、2008年1月15日付レコードチャイナを参照)、今年に入ってからも70碼事件、そして玉嬌事件で、ネットを通じた「声の集まり」が政府の対応を変える「勝利」をもたらした。
玉嬌事件を伝えた本ブログのエントリー「「司法の知恵」を許していいのか?官僚刺殺事件の「勝訴」に問われる良識」では、「勝利」を無邪気に喜ぶ市民の声に疑義を呈した。すなわち「勝利」はあくまで権力者の慈悲がもたらされた結果であり、「法治」という観点からは逆行するものであったからだ。
そしウルムチ騒乱が起きた今、中国のインターネットにはどのような声が叫ばれているのか。ウイグル人への報復、少数民族として優遇措置を受けてきた歴史を批判する声があふれかえり、権力者も無視できない状態になっている。もし今回、再び市民の声が「勝利」するようなことになれば、その結末はあまりにも無残なものとなるだろう。
10日、新華社ははじめてウルムチ騒乱の民族別死者数を明かした。漢民族が137人、ウイグル人が46人と発表されている。ほぼ3対1という割合はネットに響き渡る声に最大限に配慮し、熟考したうえで決定された数字ではないのかとも疑わせる。
一方、ネットでは死者一人一人の名前を確定していく作業が進められているようだ。個別の死者に寄り添う哀悼の行為自体は決して間違ったものではないが、着地点を求めた政府発表を揺らがすものになること、そして死者の物語について理解することがより深い怒りを呼び起こすことになるだろう。こうした声の高まりに中国政府はどう判断を下すのだろうか。
ここまで解説してきたような中国の政治文化にあって、もし民の声がゆがんだ方向に暴走した時、「血の報復」を求めた時、慈悲深き権力者はどのような行動をとるのか。そこに「皇帝独裁下のポピュリズム」が立ち現れるのかもしれない。
以上で終わりです。計4本にも及ぶ、長すぎるお話となってしまいました。全部読んでくださった方、本当にお疲れさまでした。ちょっと大上段に過ぎたかなと反省しておりますので、ご容赦ください。


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<ウルムチ騒乱>官に「声を届ける」こと=陳情からマスメディアへ
本エントリーは「民意が国を滅ぼす時=血の報復を叫ぶ市民」「皇帝とポピュリズム=現代中国の政治文化」の続きです。
前回は現代中国の政治状況(政治文化と呼ぶこともできるだろう)が伝統中国の影響を色濃く残したものであり、政治家は慈悲深い「父母官」としての役割を演じることを求められていることを述べた。
ではこうした社会において権力を持たない一般市民が取るべき合理的な行動はなんだろうか?それはもちろん慈悲深い権力者に自らの窮状を伝えることにある。前エントリーで政治家の慈悲深い振る舞いが「社会正義」を実現するツールとして機能したことを指摘した。しかしその回路は政治家が目の届く範囲に限定されるため、恩寵に預かるにはどうにかして声を届かせなければならない。
声を届かせる最もクラシカルな手段、それは陳情、中国語でいう「上訪」である。日本は中国の「上訪」に関するニュースは、「陳情者が北京に到着したら警官が待ち受けていて地元に連れ戻された」「陳情者が寝泊まりする上訪村に長期間逗留しているが、いつ訴えが取り上げられるかわからず不安な日々を過ごしている」といったネガティブなイメージで伝えられることが多いが、見逃してはならないのは中国政府が「上訪」という訴えの回路を決して閉ざそうとはしないことである。最上級の官が慈悲深くも恩恵を下す、その可能性は限りなく低いが道は閉ざさない。こうした制度設計は伝統中国から変わらず存在し続けている。
「上訪」以外に声をとどかせる手段として新たに生まれたもの、それは新聞やテレビといったマスメディアだった。前回エントリーでは温家宝首相の鶴の一声で誘拐事件が解決したエピソードを紹介したが、温首相は子どもを失った両親たちの声を直接聞いたのではなく、いきさつを報じる新聞を読んだのだった。
こうしたドラマチックな事案のみならず、マスメディアの「声を届ける機能」はさまざまな場面で機能している。たとえば地方局のニュース番組。「マンホールがなくなって道路に穴が空いた状態。危険すぎる」といった住民のささいな訴えが取り上げられる。カメラはその住民が担当部門を訪問し、道路にマンホールが設置されるまでを映し出す。
マスメディア自身も「声を届ける機能」についてきわめて自覚的だ。電話ホットライン、チャットソフト、メールアドレスを公開し、積極的に訴えやたれ込みを受け付けている。マスメディアは「上訪」と比べ、訴えに必要なコストをはるかに引き下げる効果をもたらしたのと同時に、訴えから問題の解決というプロセスを可視化し、人々に伝えるという意味で大きな影響をもたらした。
新聞やテレビなどのマスメディアが変えた「声を届ける機能」。しかし21世紀に入り普及したインターネットもまた「声を届ける機能」を有する新たなツールとなりつつある。しかしそこには「上訪」やマスメディアとは決定的に異なる要素を有している。次回エントリーではこの点を考えてみたい。

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前回は現代中国の政治状況(政治文化と呼ぶこともできるだろう)が伝統中国の影響を色濃く残したものであり、政治家は慈悲深い「父母官」としての役割を演じることを求められていることを述べた。
ではこうした社会において権力を持たない一般市民が取るべき合理的な行動はなんだろうか?それはもちろん慈悲深い権力者に自らの窮状を伝えることにある。前エントリーで政治家の慈悲深い振る舞いが「社会正義」を実現するツールとして機能したことを指摘した。しかしその回路は政治家が目の届く範囲に限定されるため、恩寵に預かるにはどうにかして声を届かせなければならない。
声を届かせる最もクラシカルな手段、それは陳情、中国語でいう「上訪」である。日本は中国の「上訪」に関するニュースは、「陳情者が北京に到着したら警官が待ち受けていて地元に連れ戻された」「陳情者が寝泊まりする上訪村に長期間逗留しているが、いつ訴えが取り上げられるかわからず不安な日々を過ごしている」といったネガティブなイメージで伝えられることが多いが、見逃してはならないのは中国政府が「上訪」という訴えの回路を決して閉ざそうとはしないことである。最上級の官が慈悲深くも恩恵を下す、その可能性は限りなく低いが道は閉ざさない。こうした制度設計は伝統中国から変わらず存在し続けている。
「上訪」以外に声をとどかせる手段として新たに生まれたもの、それは新聞やテレビといったマスメディアだった。前回エントリーでは温家宝首相の鶴の一声で誘拐事件が解決したエピソードを紹介したが、温首相は子どもを失った両親たちの声を直接聞いたのではなく、いきさつを報じる新聞を読んだのだった。
こうしたドラマチックな事案のみならず、マスメディアの「声を届ける機能」はさまざまな場面で機能している。たとえば地方局のニュース番組。「マンホールがなくなって道路に穴が空いた状態。危険すぎる」といった住民のささいな訴えが取り上げられる。カメラはその住民が担当部門を訪問し、道路にマンホールが設置されるまでを映し出す。
マスメディア自身も「声を届ける機能」についてきわめて自覚的だ。電話ホットライン、チャットソフト、メールアドレスを公開し、積極的に訴えやたれ込みを受け付けている。マスメディアは「上訪」と比べ、訴えに必要なコストをはるかに引き下げる効果をもたらしたのと同時に、訴えから問題の解決というプロセスを可視化し、人々に伝えるという意味で大きな影響をもたらした。
新聞やテレビなどのマスメディアが変えた「声を届ける機能」。しかし21世紀に入り普及したインターネットもまた「声を届ける機能」を有する新たなツールとなりつつある。しかしそこには「上訪」やマスメディアとは決定的に異なる要素を有している。次回エントリーではこの点を考えてみたい。


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<ウルムチ騒乱>皇帝とポピュリズム=現代中国の政治文化
本エントリーは「<ウルムチ騒乱>民意が国を滅ぼす時=血の報復を叫ぶ市民」の続きです。
伝統中国では地方官は「父母官」と別称された。この名称には官僚の卓越した“徳”によって、あたかも父母のように民衆に恩恵を与える存在であることが含意されている。この図式は地方官にとどまるものではなく、最高の“徳”を持つ存在=皇帝こそが最大の慈愛をもって民衆に対すると観念されていた。裏返せば、慈愛に感謝する民の存在こそが皇帝や地方官の“徳”を証明し、その支配の正統性を証明するものであった。
こうした図式は新中国になっても大きくは変わっていない。公式テレビニュース番組「新聞聯播」は冒頭に政府要人の動向を伝えるコーナーが存在するが、そこで繰り返し語られるのは「民衆に向けられた慈愛」である。胡錦濤国家主席や温家宝首相が貧困地区を訪問し暮らしぶりを尋ねる。それだけではなく、手ずから料理を作って市民に振る舞うというパフォーマンスまで行われる。
いや恩恵はこの程度でとどまるものではない。例えば2003年の熊徳明さんの問題。農村を訪問した温家宝首相に「出稼ぎに行っている夫の給与が未払いで困っている」と訴えたところ、温首相はただちに解決を指示、その夜のうちに未払い給与が支払われた。2007年には捜査から8か月、一向に進展しなかった河南省の児童誘拐事件が、新聞の報道を目にした温首相の鶴の一声でわずか8日で解決したこともある。
こうした中国の「政治家のあり方」は近代国家とは異なるものと言える。つまり近代国家とは立法、司法、行政の分立に代表されるように、各国家機関の職権、職責が明確化されているもの。たとえ善意によるものであれ、恣意的な権力行使は許されない(少なくとも理念的には)。
中国社会の特異なあり方、それはたんに政治家に強大な権限が集中していることにのみ由来するものではない。先に述べた「父母官」の伝統が強く影響しているもののように思える。その理解において最もふさわしい補助線となるのが中国法制史の滋賀秀三氏の研究だろう。
滋賀氏は清代の裁判は「法」、「理」、「情」の三つの判断基準によって決定されたと唱えている。「法」とは法律の条文そのもの、「理」とは法律の条文にはないものの普遍的な真理と見なされるもの、そして「情」とは物事のコンテクストや当事者への同情を意味する。
日本にも「大岡裁き」という言葉があり、事案の内情や当事者の心情を読み取った裁判は称賛されるべきものと目されている。しかしながら(近代以降は)「大岡裁き」はレアケース、あるいは理想ではあっても現実にはないものであるのに対し、中国では「情」に即した裁判はむしろ制度そのものに内包された、レアケースではなく積極的に実現されるべきものと観念されている。
伝統中国から続く政治家のあり方、権力のあり方。それは新中国になっても色濃く影響を残すものであった。「人治から法治へ」という有名なスローガンは、伝統の残滓を投げ捨て近代国家としての一般的な形態に移行することを求めるものである。ただし伝統的な「情」や「父母官」の観念がたんに批判されるべき対象であったとは言い切れない。不十分かつ部分的なものであったにせよ、「社会正義」を実現するツールとして機能していた側面も見逃せないためだ。
しかし今、インターネットというニューメディアの登場によって、こうした中国のあり方は大きな危機を迎えているように見える。ウルムチ騒乱後に「血の報復」を唱える漢民族ネットユーザーの声はまさに危機を明示するものにほかならない。
次回エントリー(今度こそ最終回…)ではニューメディアの登場が与えた影響を考えたい。

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伝統中国では地方官は「父母官」と別称された。この名称には官僚の卓越した“徳”によって、あたかも父母のように民衆に恩恵を与える存在であることが含意されている。この図式は地方官にとどまるものではなく、最高の“徳”を持つ存在=皇帝こそが最大の慈愛をもって民衆に対すると観念されていた。裏返せば、慈愛に感謝する民の存在こそが皇帝や地方官の“徳”を証明し、その支配の正統性を証明するものであった。
こうした図式は新中国になっても大きくは変わっていない。公式テレビニュース番組「新聞聯播」は冒頭に政府要人の動向を伝えるコーナーが存在するが、そこで繰り返し語られるのは「民衆に向けられた慈愛」である。胡錦濤国家主席や温家宝首相が貧困地区を訪問し暮らしぶりを尋ねる。それだけではなく、手ずから料理を作って市民に振る舞うというパフォーマンスまで行われる。
いや恩恵はこの程度でとどまるものではない。例えば2003年の熊徳明さんの問題。農村を訪問した温家宝首相に「出稼ぎに行っている夫の給与が未払いで困っている」と訴えたところ、温首相はただちに解決を指示、その夜のうちに未払い給与が支払われた。2007年には捜査から8か月、一向に進展しなかった河南省の児童誘拐事件が、新聞の報道を目にした温首相の鶴の一声でわずか8日で解決したこともある。
こうした中国の「政治家のあり方」は近代国家とは異なるものと言える。つまり近代国家とは立法、司法、行政の分立に代表されるように、各国家機関の職権、職責が明確化されているもの。たとえ善意によるものであれ、恣意的な権力行使は許されない(少なくとも理念的には)。
中国社会の特異なあり方、それはたんに政治家に強大な権限が集中していることにのみ由来するものではない。先に述べた「父母官」の伝統が強く影響しているもののように思える。その理解において最もふさわしい補助線となるのが中国法制史の滋賀秀三氏の研究だろう。
滋賀氏は清代の裁判は「法」、「理」、「情」の三つの判断基準によって決定されたと唱えている。「法」とは法律の条文そのもの、「理」とは法律の条文にはないものの普遍的な真理と見なされるもの、そして「情」とは物事のコンテクストや当事者への同情を意味する。
日本にも「大岡裁き」という言葉があり、事案の内情や当事者の心情を読み取った裁判は称賛されるべきものと目されている。しかしながら(近代以降は)「大岡裁き」はレアケース、あるいは理想ではあっても現実にはないものであるのに対し、中国では「情」に即した裁判はむしろ制度そのものに内包された、レアケースではなく積極的に実現されるべきものと観念されている。
伝統中国から続く政治家のあり方、権力のあり方。それは新中国になっても色濃く影響を残すものであった。「人治から法治へ」という有名なスローガンは、伝統の残滓を投げ捨て近代国家としての一般的な形態に移行することを求めるものである。ただし伝統的な「情」や「父母官」の観念がたんに批判されるべき対象であったとは言い切れない。不十分かつ部分的なものであったにせよ、「社会正義」を実現するツールとして機能していた側面も見逃せないためだ。
しかし今、インターネットというニューメディアの登場によって、こうした中国のあり方は大きな危機を迎えているように見える。ウルムチ騒乱後に「血の報復」を唱える漢民族ネットユーザーの声はまさに危機を明示するものにほかならない。
次回エントリー(今度こそ最終回…)ではニューメディアの登場が与えた影響を考えたい。


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